「武蔵野の地・新座で落葉林を味わう」

立教大学 観光学部交流文化学科 3年  橋本 陽奈


 埼玉県新座市。この地名を聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。多くの人にとっては、初めて聞いた、なんてことのない一つの市の名前かもしれない。では、「武蔵野」はどうだろう。都内在住の人は、東京都武蔵野市を思い浮かべただろうか。しかし、この行政によって定められた武蔵野とは別に、「武蔵野」という言葉は、かつては武蔵野台地、渋谷を含む東京区部西半分から埼玉県入間市のあたり、多摩川から荒川に挟まれた地域を広く指す言葉であった。そしてそこには、新座市も含まれている。


 さて、新座が「武蔵野」の一部であると分かったところで、一体何だというのか。新座と武蔵野の結びつきから、何が見えるのか。「武蔵野」といえば、雑木林、ひいては、落葉林の美である。明治期の文豪、国木田独歩が発見したといわれるものだ。白砂青松という言葉があるように、日本において、それまで伝統的に愛でられてきたのは白い砂浜に松林といった、西国でみられる風景であった。そんな中、この「武蔵野」で独歩の散策によって落葉林に美しさが見出された――「林中にて黙想し、回顧し、睇視し、俯仰せり」。独歩の『欺かざるの記』に記された一節である。


 この落葉林の美を味わうのにぴったりな場所が、新座にはある。禅宗の僧たちのための修行道場として建立された、平林寺だ。(※) その寺は、武蔵野線新座駅から10分ほどバスに揺られた先にある。600年以上前に現在のさいたま市のあたりで創建され、350年ほど前に、この新座へと移されてきた。バスを降りると、すぐにかやぶき屋根の門が見えてくる。禅宗のお寺らしい、装飾が削り落とされた、木造の素朴かつ堂々とした佇まいだ。同時に見えてくるのが、雑木林。この平林寺は、境内を守るように植えられた木々の中にある。建造物の古い木の色と対照的な、青々と生い茂る葉の色。新しいものと古いもの。変わらないもの、変わりゆくもの。そんなことを考えながら、さらに歩みを進め、金剛力士像が収められた山門の下をくぐり抜けると、仏殿の前にたどり着く。肌で感じるのは、どこか訪れる者を圧倒する雰囲気だ。余計なもののない、仏道修行のための静かな空間がそこにはある。


 忘れてはならないのが、仏殿や本堂より奥に位置する、境内林だ。春から初夏にかけては新緑の瑞々しい青が、秋には赤、黄、橙に染め上げられた木々の姿を見ることができる。冬にかけては、時雨の葉を散らす音が耳を楽しませる。

そんな、四季折々異なる姿を見せる落葉林の中を歩きながら、すぅ、と息を吸ってみる。大空を仰ぎ見る。林の中から聞こえてくる音に耳をそばだてる。淡々と、脈々と、受け継がれてきた禅の心が作りだす空気は、ぴんとはった糸のようでいて、同時に心が静まる。禅僧が、独歩が、林の中で黙想した姿と、自分の姿が重なり合う。寺の空気の中で落葉林の美を味わう。そんな体験が、ここ平林寺ではできるのである。


 雑木林と寺。一見よくある景色に思えてしまうものでも、立ち止まって注視してみると、思いもよらなかった魅力を発見することができる。独歩の見た武蔵野の風景、落葉林の美、長い時間のなかで守られ、受け継がれてきた寺の風景。それは、それまで当たり前のように見えていたものに、ある一つのフィルターをかけることに少し似ている。実際にその地を歩いて、実感する。そうして見落としていたものを発見したときの興奮こそが散策、ひいては旅行の醍醐味となる。まずは、新座から始めてみよう。「武蔵野の地」というフィルターを通した新座は、どんな風に見えるだろうか。

※ 創建時は、修行道場との関連はありませんが、作品は原文のまま掲載しています。平林寺に修行道場が創建されたのは明治期