『切り残された風景』

十文字学園女子大学 教育人文学部文芸文化学科 2年
今 愛里香

 

 少し遅めの初詣。そんな時期に私は祖母と共に平林寺へ足を運んだ。

 にいバスで市役所まで向かい、そこからはのんびり歩いて目的地を目指した。駅を通りすぎたあたりから、ずっと先まで続く平林寺境内林にチラチラと目がいった。広さはなんと東京ドーム九つ分もあるとのことだ。

 境内に入ると、正面にそびえる山門に目を奪われた。と言うべきなのだろうが、私はそれよりも先に修学旅行で寺院の見学の際に以前も感じてしたワクワクソワソワとする気持ちを入口で貰った境内の地図と入山証を見つめながら思い出していた。そして今度こそ正面にそびえる山門に目を奪われた。後で調べたことだが、この山門は三五〇年以上も昔の建造物だそうで、平林寺が野火止に移転した際には、わざわざ一時的に解体してまで移築されたらしい。後々、三五〇年以上も昔の建物であるからこそ、あの風格、圧倒的な存在感が出せるのだろうか。と思い返した。

 コミュ力お化けの祖母はいつの間にやらさっき会ったばかりであるはずの人と仲良さげに話していた。地元の人であるらしい男性が「ここを回るのは散歩に丁度良い。」と話していた。

 大河内松平家廟所は、道に沿ってずらりと並ぶ数多くの灯籠と多くの墓石が印象に残った。墓石は一七〇もあるらしく、三代目将軍の徳川家光と四代目将軍の家綱に仕えた松平伊豆守信綱という人に連なる一族のものだそうだ。幾つかの墓石を見てみると「天和」や「明和」などの年号が見てとれた。天和とは……?と疑問に思い調べてみると天和は江戸時代前期、明和は中期にあった年号だということが分かった。古いものである。という漠然とした認識が塗り変わり「本当に、その時代に平林寺は移転して来たのだな。」と今更ながらに理解できた。同時に、「墓所の廻りの石の柵が、こわれやすく危険な状態でありますので…」という注意点書きが立てられていた事を思い出した。そんなに昔に作られたものなのにも関わらず、未だ「こわれやすい」状態でしかないほど保存状態が良いことに気づき、月並みに「凄いな」なんて思ったりした。

 道は平林寺境内林の中へと続いていった。その日は残念ながら曇りであったので、木漏れ日のある林と言える程の光景は目に出来なかった。しかし、ゆっくり流れているように感じる時間や、視界いっぱいに広がる木々に、まるでここだけ時間が止まっているような、日常と切り離されたような感覚を覚えた。実際、昔からの状態を保ち続けているのだから、時間が止まっていると思うものあながち間違いではないかもしれない。落ち葉を踏みしめるサクサクという音の代わりに、踏み潰してしまったドングリのパキパキという音や、どこからで鳥が木をつつく軽い音が聞こえていた。キツツキでもいるのだろうか。と周りを見渡してみたがその姿は見つけられず少し残念に思ったりもした。

 進んで行くと放生池という池があった。丁度良く射し込む日光が水の透明感を際立て、水面に浮かぶ落ち葉、その下を泳ぐ一匹の鯉が私にはとても綺麗に見えた。池の水は野火止用水から引いているそうで、鯉は一匹だけしかいないのだろうかと水面を見つめていると祖母から声がかかった。「人面魚がいるよ。」と冗談混じりで言う祖母。半信半疑で目を向けると、頭の黒の斑が人面のようになっている赤い鯉が他の鯉達と一緒に泳いでいた。思っていたよりしっかりとした顔のような模様に少し驚いたことを覚えている。

 楽しい時間というものはあっという間で、時間もそろそろお昼時になっていた。お昼を食べに行くことになり、今度こそは紅葉の綺麗な時期に来たいなぁ。なんて思いながら私は帰りのバスに乗り込んだ。