『ペトリコールに溺れて』

立教大学 文学部史学科 3年
古賀 亜紀子

 

 没頭できる場所とは、一歩足を踏み入れただけで感ずるものだ――。

 外界との隔たりを経て、内界の厳かな空間には悠久の趣が充ち満ちる。緑がざわめき、苔むす通り路を踏みしめる響きが木霊する安寧の場、そこが平林寺であった。

 乗り入れ路線の多い志木駅、もしくは朝霞台駅よりバスで20分程度の距離に、金峰山平林寺は位置する。新座市の中央に東京ドーム約9個分もの広大な敷地を構えているが、完全なる観光寺院ではなく禅宗道場でもあるため、立入禁止区域に留意する必要がある。入山する前に深呼吸をして静謐な心を保ち、入り口で地図を貰い、40〜50分の時間をかけゆったり歩を進めることをおすすめする。

 ――いや、さらに時計を外し、携帯の電源を切った方が良い。

 ここは道場特有の、ピンと張り詰めた糸のような粛然とした様の中に、野火止の水の流れと共に自然の一切が空間のゆとりを生み出している。余計な足枷となる現実を忘れ、是非とも自由な人の身一つで訪れ、空気のうねりと足裏から伝わる大地の柔らかさを感じ取ってほしい。

 私が平林寺に初めて赴いたのは、朝中降り続いた雨が上がり、一時の晴れ間をもたらした時だった。空を覆い尽くさんばかりの葉の隙間から差し込む鋭い陽光が、地を這う木々の根や絵画のようにうねる放生池の水面に生命の輝きを与えている。池では目も眩む鯉の赤が緑に映え、その泳ぎは「あぁ、気ままな暮らしとはこのようなものか」と溜め息を吐くほど優雅で、自由を享楽した鯉たちを羨む自分に少し笑いすら溢れる。名残惜しく池より遠ざかると、焦れったいマスク越しに大きく息を吸ってみた。今や私達の新たな肌となった貴重な紙一枚を隔て、雨が起こしたペトリコールの香りが鼻腔をくすぐる。懐かしさと、どこか甘さも混ざったこの香りを、私達は憶えている。どこもかしこも生の無い機械で清浄された空気が埋め尽くす中でも、私はノスタルジックな愉しみを平林寺で思い出した。

 さらに境内では循環する自然が作り出したモスグリーンの苔絨毯が見られる。しぶとく地球に根ざす意志と、人為の加わらない孤独な淋しさを共存させた絨毯は、平林寺に立ち籠める味わい深い雰囲気のために敷かれているのだろうか。やがて私はその隣を歩く。しゃりしゃりと、水分を含んだ土の踏む音色が耳に心地良い。無機質なアスファルトのかたさで慣れてしまった人々の足は、土によく馴染んで、そして楽しんでいるようだった。

 すると突然静寂を切り裂き、竹筒を割ったようなまっすぐな音が辺り隅々まで反響した。道場の標しだろうか、何度もコンッ、コンッ、と鳴っては自然に吸い込まれ、やがてまたしじまが帳を下ろす。ふと気付くと内心の穢れが音に追いやられ、より一層平林寺へ一体化する感覚に、自ら、溺れてゆく。

 道なりに歩むと、大河内松平家の眠る地へ開ける。変わらぬ時のうつろいが、墓石に刻まれていた。享保、天保…令和の時代に現れる歴史の軌跡が視界に飛び込んでくる。人が造り、人が入り、幾人もが参った歴史を、夏のじっとりした空気が運んで…。

 時折地図を眺めながら眠りの場を抜けると、これまでに抱いた感情をゆっくり噛み締める歩みへと変わる。両側に延々と続くような森林が、不思議と何故だか風に揺れずに腰を据えて構えていた。誰もが地に足つかずの如く明後日ばかりを見て速歩きする現代で、一寸先に在る幹はこれほどまでにも堂々たる姿勢を魅せてくれる。緊張をもはらむ平林寺で私は、いつの間にか丸まっていた背を伸ばしていた。

 平林寺に身を任せ、心は森へ沈み。没頭できる空間が、ここには確かにあった。