『触れられる神秘』
十文字学園女子大学教育人文学部文芸文化学科2年
清水 里紗
これは、私が授業の一環で平林寺へと訪れた時の話である。私が通う十文字女子大学から歩いて二十数分ほどの場所に平林寺の入山受付所があり、そこで入山料を払って、私は自然豊かなその場所へと足を踏み入れた。
入山後しばらく建造物があるあたりを散策したり、写真を撮ったりなどの活動を行っていくうちに、今までの疲労が体に蓄積していたのか、私はどこかで少し休みたいと思うようになった。平林寺内が広く、全部を見て回るのに結構な距離を歩いたからというのもあるだろうが、単純に大学から平林寺まで結構な距離を歩いたということも関係したのだろう。途中にあったベンチを探そうと後ろを振り向き、改めて自分の歩いてきた道を見た瞬間、確かに今まであった私の、ベンチで休みたいという気持ちは小さくなり、その辺に寝っ転がりたいなという衝動が大きく沸き上がったのだった。
多分私が幼稚園生ぐらいであったら、何のためらいも見せずに寝っ転がっていただろうが、もう私は大学一年生になるし、平日の昼間とはいえ人がいないわけでもないし、その時着ていた白いダウンジャケットが汚れるだろうしで、突発的衝動が沸き上がったものの、実行する勇気がなく、結局その日は地べたに寝っ転がることはなかった。しかし平林寺にいる間、ベンチに座り休むことよりも、木々の紅葉に囲まれ、地面に体を預けながら、空で雲が流れる様を眺めながら体を休めていきたいと、思いついてから常に頭の中で考えていた。
しかしながら、私がベンチより地面のほうが良いと感じたのは、ただ自然が好きだからではないと断言できる。なぜなら私の家の庭には、平林寺には劣るものの、立派な木などの自然があるほか、私の身長ほどの塀に囲まれているという利点があるにもかかわらず、上記の思考に思い至ったことはこれまで一度もないからである。実際に家に帰った後自分の家の庭を少し歩いても、疲れているにもかかわらず、平林寺の自然を見たときのように地面に寝っ転がりたいと考えたことはなかった。そのため私は、庭の自然に触れながら、家の自然と平林寺の自然とで何が違うのか不思議に思い、当時思ったことを振り返り、一つの結論に至った。
平林寺の自然の中にいた私は、ただ休みたいから地面に転がりたいと思ったわけではなかった。休みたいという考えはただのきっかけでしかなく、本当は平林寺という自然に加わりたかったのだ。
それほどまでに、平林寺という自然に飲まれていた。私は、平林寺が持つ自然は、長い歴史だけではなく、どこか身近に感じさせるような神秘性があるように感じている。私がこの平林寺の自然を表現するなら、美しい紅葉とともに、触れることが許されている神秘として称したい。まるで美術館の中にある絵などを見ているような感覚であるのに、美術館の絵と違い、少し世間体を気にしない心を持つことができたのなら、限度はあるだろうが、心行くまで触ることができるのだから。
私自身、景色だけを見に外へ足を運ぶといったことをしないインドア派であるので、十文字学園女子大学に通うことで、新座の自然に初めて触れることになったが、こうして時間をかけて景色を存分に堪能することができる場所が自分の活動範囲内にあるという現状を大事にしていきたいと思う。残りの三年の間で、今日足を運んだ時のように、平林寺の木々の葉っぱが赤や黄に色づいたころに、また足を運び、今度は体育座りでもしながら空を眺められるように、次は少しの勇気と時間を持って平林寺へと赴きたい。
