『あの場所が私をよんでいる』

立教大学 観光学部観光学科 2年
有原 彩乃

 

 「ドンドンドーン、ガタン、ゴトン」。始発の電車の音が聞こえてきた。どれほど時間が経ったであろうか。駅から徒歩一分距離の学生マンションで毎日電車の音とともに過ごす私は、一晩中寝られずにいた。何もかも上手くいかず泣きたくなるような、そんな嫌なことがあった。どうにか気を紛らわせられるようにスマホを開いてみたり、ありったけ泣いてみたり。気が付けば、「いい加減にしなよ。」と、私に言わんばかりにカーテンの隙間から眩しい光が差し込む。無情にも電車は走り始めている。世界は朝を迎えた。
 普段から人に悩みを相談することが苦手な私は、一人でどうすることも出来ず煮詰まっている。そんな時にふと、大学の授業で初めて知った「平林寺」を思い出した。「新座にこんな場所があるのだ。」と衝撃を受けたあの日。いつか必ず行こうと決めていたが、なんとなく今な気がする。「平林寺に行け。」と誰かに言われている気がする。不思議と体が自然に動く。気が付けば、涙でパンパンに浮腫んだ目をこすりながら水とスマホと自転車の鍵を片手に家を出ていた。
 埼玉県新座市にある平林寺。正式名称は「金鳳山平林禅寺」といい、広さ約43haの境内林をほこり、国指定の天然記念物に登録されている。大学の最寄り駅からバスで約15分のところ、どうやら私の住んでいるところからは自転車で行けるそうだ。授業で聞いた、境内に生い茂る広大な雑木林をめがけ、朝の6時頃、私は自転車をこぎ始めた。
 6月中旬の朝、優しく涼しい風が肌をそっと触る。朝の風と太陽の光を浴びながら自分のペースでゆっくりと自転車を走らせる。ランニングをする人や犬の散歩をする人とすれ違いながら自転車を漕ぐこと、かれこれ30分程経った頃であろうか。それまでの雰囲気とは一転し、まるで異世界に来たような森閑とした緑の通りが開けた。そこから一本道。平林寺らしきものが見えてくる。私は少しだけスピードをあげた。平林寺のそばにある参拝者用駐輪場に自転車を止め、平林寺の総門へと足を運ばせる。毎日耳にする電車の音、人々の足音、喋り声、車の音、食器が触れ合う音…。せわしない日常が生み出す騒音がひとつも聞こえない。ただ、風で優しく揺れる木々の音、小鳥の美しい鳴き声、平林寺のそばを流れる野火止用水が静かにせせらぐ音__、まさに自然が創り上げる音楽を大ホールの最前列で聞いているみたいだ。
 朝の澄んだ空気を身にまとい、いざ平林寺の総門の前に立つ。あれ、ちょっと待って。門に貼ってある文字を見ると、入山時間は9時~だと書いてある。一度、スマホの時計を見てみる。今は、6時36分だ。かなり気が早すぎた。平林寺が私をよんでいる気がして、思いのまま自転車を走らせて来たが思い違いだったのかと、フッと笑みがこぼれた。
 ふと気が付いた。嫌な気持ちを忘れ、私の頬が緩んだのは何時間ぶりであろうか__。やはり、平林寺は私をよんでいたに違いない。改めて総門の前に立ち直し、目をつむり大きく深呼吸をしてみる。自然が奏でる優しい音が耳を通り抜け、朝の匂いと雑木林の匂いが合わさった独特の涼やかな香りが鼻の奥に届き、透き通った新鮮で神聖な空気が私を包み込む。自然と瞼に涙がたまり、目を開けると大きな一粒が頬をつたった。なんだか、この空間では素直になれる気がする。ありのままでいていいよと言われている気がする。人に相談することが苦手な私の悩みを言わずとも理解してくれる気がする。気が付けば、ポロポロと涙を流しながら笑っている自分がいた。
 境内に入らずとも不思議な力で私を救ってくれた平林寺。きっとこれから辛いことがあればまた平林寺に来るのだろう。今度こそは境内の中に入るぞ。そんなことを確信しながら来た道を再び自転車で走り抜けた。