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新 座 市 の 文 化 財 |
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・にいざの豆知識
・ふるさとにいざ四季おりおり景観30選
・アトムのものがたり |
| Contents |
・Aコース:大和田宿をあるく(伝説と宿場の面影を訪ねて) ・Bコース:野火止用水をあるく(史跡と緑の散歩道)
・Cコース:黒目の里をあるく(中世のロマンを求めて) |
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国指定天然記念物 平林寺境内林
(野火止3-1 平林寺)
Natural forest of Heirinji Temple
平林寺は、関東地方で名高い古刹の1つで、寺域には約43haに及ぶ広大な境内林がある。
アカマツ林やコナラ・クヌギ林から成っており、エゴノキ・クマシデなどの高木も見られる。
(昭和43年5月28日指定) |
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県指定古文書 平林寺文書
(野火止3-1-1 平林寺)
Old documents of Heirinji Temple written in 1544
本文書群は、平林寺に所蔵されている中世関係文書で、いずれも岩槻太田氏と旧岩槻平林寺に発給された内容である。
関東戦国史研究上重要な史料で、戦国末期の岩槻領支配の状況を示す貴重な史料である。
(平成11年3月19日指定) |
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県指定史跡 野火止用水
(野火止ほか 新座市)
Nobitome Irrigation Canal
野火止用水は、野火止台地開拓者の大切な飲料水として、承応4(1655)年に、当時川越城主であった松平伊豆守信綱が家臣安松金右衛門に命じ、玉川上水から分水したもの。飲料水を主目的に開削した用水路である。
(昭和19年3月31日指定) |
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県指定名勝 平林寺林泉境内
(野火止3-1 平林寺)
A typical Japanese garden of Heirinji Temple
平林寺の書院の奥に千坪の広さを有する池泉廻遊式庭園がある。庭園は裏山をたくみに借景し、上方は枯山水の石組、下方には心字池を配した造りで江戸時代中期の作と伝える名園である。
(昭和19年3月31日指定) |
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県指定史跡 松平伊豆守信綱夫妻の墓
(野火止3-1 大河内信定)
Tombs of the Lord of Kawagoe Castle and his wife
平林寺は、松平伊豆守信綱をはじめとする大河内松平家歴代の菩提寺で、約3千坪にわたる墓域の中に高崎・吉田・大多喜の三藩の墓とともに信綱夫妻の墓がある。松平信綱は、将軍家光の信任が厚く、老中などを歴任。台地開発の先駆をなす野火止用水の開削など多くの功績を残した人物である。
(昭和31年11月1日指定) |
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県指定建造物 平林寺総門・山門・仏殿・中門
(野火止3-1 平林寺)
Historical wooden gates of Heirinji Temple
※総門は間口2間1尺に1丈4寸の両扉を付し、六本柱の切妻作り。
※山門は間口3間、奥行2間に両扉を付した重層入母屋造り。
※仏殿は間口6間、奥行5間半の単層入母屋造り。
※中門は間口8尺、奥行1間4尺で両扉を付けた切妻造り。 (昭和48年3月9日指定) |
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県指定彫刻 木造他阿真教上人坐像
(道場1-10-13 法台寺)
A wooden statue of a famous priest built in the end of 14th century.
面貌や着衣法などから一遍上人の示寂後、時宗教団を統率し、遊行二世と尊崇された他阿真教上人(1237〜1319)であることがわかる。
本像は作風など、技法的に見て明らかに14世紀後半の南北朝時代の特色を示しており、中世時宗高僧像の遺例である。
(平成9年3月18日指定) |
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県指定考古資料 法台寺板石塔婆群
(道場1-10-13 法台寺)
Tomstones in Hodaiji Temple built in 1313
指定の板石塔婆は全部で11基あり、2メートルを越すものもある。内訳は、名号を有するもの8期、種子のもの2基、他に指定として、私年号である致得(至徳)元年銘の名号1基が付け加えられている。造立年代は、正和2年(1313)から、至徳元年(1384)まで70年間に及んでいる。
(昭和42年3月28日指定) |
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県指定古文書 野火止新田開発関係資料
(野火止1-1-1 新座市教育委員会)
Historical materials of Nobitome Plateau written in 1661
寛文元年(1661)の野火止村開検地帳5点と年貢割付状4点で、信綱の押印がある。
これらは開発当時の野火止村の検地区分や松平伊勢守・同右京亮の屋敷を始め、松平伊豆守家来の屋敷などの屋敷割も記されており、川越藩の野火止台地開発における根本資料といえる。
(昭和58年3月22日指定) |
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市指定芸能 武州里神楽
(野火7-11-1 石山哲夫)
Sacred art performance played over 200years
文政元年(1818)に記した石山家所蔵の「御神楽壇発控帳」によると、石山内蔵之助が文政年間には、神楽師を務めて村廻りをしていたことがわかる。
所伝の曲には、素面で舞う曲と、面をつけて舞う神代(能)とがあり、面の舞は、天ノ岩戸、八雲神詠・天孫降臨など23の舞がある。
(昭和42年3月8日指定) |
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市指定典籍 大威徳陀羅尼経第十二残巻
(大和田4-13-30 普光明寺)
Ancient scriptures written in 756A./D.
普光明寺所蔵の大威徳陀羅尼経第十二残巻は、わずかに巻末四紙を有するだけですが、奈良時代の天平写経として著名な善光朱印一切教の類巻である。ことに尾題と奥書を有して、その成立の事情を明らかにしていることは奈良時代の古写経史研究上に価値が高い。
(昭和53年2月28日指定) |
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市指定古文書 旧大和田町役場近世文書群
(野火止1-1-1 新座市教育委員会)
hISTORICAL DOCUMENTS OF nOBITOME VILLAGE WRITTEN IN 1661
野火止用水によってできた新田村の租税などの推移を知る上で重要な資料。特に野火止村寛文年間の検地帳や寛文から文久年間にかけて続く年貢割付状をはじめ、天保から文久年間にいたる宗門人別長、中山道蕨宿への加助郷文書など村の歴史をひもとく資料でもある。
(昭和55年4月10日指定) |
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市指定古文書 野火止用水古絵図
(野火止1-1-1 新座市教育委員会)
An old map of Nobitome Irrigation Canal drawn in 1871
明治4年に作成されたこの絵図面には、玉川上水の取入口から新河岸川を越えた宗岡までの流末にいたる本流や支流関係、用水沿の道路や橋の状況・廻し堀・伏越し・水車場など、野火止用水の全体像がわかる唯一の古絵図である。
(昭和55年4月10日指定) |
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市指定芸能 大和田囃子
(大和田4−15−13 大和田囃子保存会)
Local music performed over 100 years
氷川神社には、江戸時代の後期から祭礼の時に奉納される祭り囃子があり、川越街道名物の裸神輿と一緒に人々にひろうされてきた。
囃子の曲目には、屋台、昇殿、神田丸、鎌倉、四丁目、にんば等があり、おかめ、ひょっとこ、狐、獅子、下道などの面をつけた踊りがつく。
(昭和55年4月10日指定) |
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市指定有形民俗文化財 石造地蔵菩薩坐像
(馬場3-3-2 稲荷会館地蔵講中)
A stone satatue made in 1446
馬場の稲荷会館に安置されている石造の地蔵菩薩で、文安3年(1446)の記年銘が刻されている。総高は44cm、幅30cmで光背は円項。材質は砂岩からできており、銘文から月待ちに造立したことがわかる。
(昭和57年3月4日指定) |
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市指定歴史資料 旧菅沢村名主文書
(あたご2−1−10 佐藤善信)
Old documents of Sugasawa Village written in 1662
本資料は近世前期から菅沢村の名主・戸長などを勤めた佐藤家に伝来したもので、寛文元年の菅沢村検地帳や寛文〜元禄年間の年貢割付状、元禄〜宝永年間の村明細帳などは、市指定の旧大和田町役場文書とともに野火止新田村の開発過程や景観を示す貴重な資料である。 (平成元年3月31日指定) |
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市指定歴史資料 旧栗原村名主文書
(栗原2−3−24 原井トシ)
Old documents of Kurihara Village written in 1714
本資料は近世中期から近代にわたる村方文書で、栗原村の名主や戸長などを勤めた原井家に伝来したもの。特に正徳4年の栗原村検地帳、栗原新田検地帳や、幕末の旗本知行支配に関するものが主たる内容である。
(平成元年3月31日指定) |
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市指定歴史資料 旧原ヶ谷戸村名主文書
(馬場1−5−14 栗山美代)
An old map of Haragayato Village drawn in 1836
本資料は原ヶ谷戸村の名主などを勤め、明治には戸長も歴任した栗山家に伝来したもので、天保7年の村絵図や釜ノ口用水関係資料、明治期の片山村戸長の忘備録などがその主たる内容。
特に注目されるのは、宝暦以降明治に至る10点の原ヶ谷戸村絵図で、近世中期以降の村落景観を詳細に物語っている。
(平成元年3月31日指定)
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市指定古文書 草庵再造記
(菅沢1-4-5 長谷川新一)
Old documents of Sugasawa Village written in 1716
本文書は野火止台地の開拓村の一つである菅沢村に居住した一農民が、正徳6年(1716)に墓所のある草庵(後の番星寺)の再建にあたり、その由来と村の歴史を記述したものである。これにより、当時の公文書では知ることの出来ない農民の心情や、開発の過程を簡単ながら窺わせてくれる。
(平成元年3月31日指定) |
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市指定有形民俗文化財 鬼鹿毛の馬頭観音
(大和田1-16 普光明寺)
A stone statue with horse faves built in1696
旧川越街道の大和田字鬼鹿毛に所在する馬頭観音は、市内で最古(元禄9年・1696)で、最大(像高127cm)の石造馬頭観世音菩薩で、三面六臂の丸彫りの立像である。 (平成2年5月10日指定)
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市指定彫刻 木造阿弥陀如来及び観音・勢至菩薩立像
(道場1-10-13 法台寺)
阿弥陀如来像を中心に観音菩薩像と勢至菩薩像を脇侍像としている。この三尊像は造立時の姿をよくとどめ、切金の細工がほどこされた鎌倉時代末から南北朝時代にかけての14世紀前半代の造立とみなされ、三尊一具の中世彫刻として貴重なものである。 (平成6年3月31日指定)
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市指定芸能 中野の獅子舞
(中野1-4-5 中野の獅子舞保存会)
中野の集落に古くから伝わる獅子舞は獅子頭をかぶり、腹に太鼓をつけた「男獅子・中獅子・女獅子」が一組になって舞い、五穀豊穣と災厄除けなどを獅子に託して祈願するものである。
(8月の27,28日の予定)
(平成6年3月31日指定) |
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市指定有形民俗文化財 断髪奉納額
(野火止3-13-8 若宮八幡社)
明治初期の文明開化の風潮のなかで、断髪した髷を鎮守若宮八幡社に奉納したものである。断髪が村中で、一定の時期に行われたこと、また戸主あるいはその継承者の髷が奉納されたところから、文明開化と神社や宗教との関わりなど地域の歴史を物語る貴重な史料である。
(平成6年3月31日指定) |
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市指定有形民俗文化財 力石
(野火止3-13-8 若宮八幡社)
力石は、若宮八幡神社に奉納石として納められている。村落共同体の中で、若者たちが、力競べの行事に用いられていた。奉納された力石の内、1点は寛政3年(1791)記年名が刻まれている。もう一点の力石は、奉納と刻む下に「高橋」「車」と刻まれている。
(平成6年3月31日指定) |
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市指定有形民俗文化財 女人講中碑
(北野1-3 北野観音堂)
女人講碑に刻まれている如意輪観音像は、安産守護の仏であり女人講によって信仰されていた。文政10年(1827)建立の碑は、北野村藤宮源蔵の願主、須田いの以下25人の女人講員で建てている。その碑文には、講員26人からなる女人講中の名前が刻まれ、建立の様子を知ることができる。
(平成6年3月31日指定) |
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市指定建造物 普光明寺山門
(大和田4-13-30 普光明寺)
山門の形式は、棟門と高麗門の形式を取り入れつつ全体として薬医門とする設計意図を窺える。
正面欄間の透彫り、冠木形両端上部の彫物、唐破風の兎毛通し、木鼻、虹梁などの彫物や絵様繰形を多用して山門に華麗さを加えるとともに、その時代的特徴や当地方の彫刻技術の高さを示している。
(平成12年3月17日指定) |
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市指定絵画 絹本著色弁才天像
(道場1-10-13 法台寺)
本図の伝来は未詳だが、寺伝によれば江戸時代中期に施入されたものという。
制作年代は画風から見て室町時代前期を下らないと推定される。二臂琵琶弾奏の弁才天像としては比較的古例に属し、作行きも優れた名品といえる。
(昭和12年3月17日指定) |
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市指定彫刻 氷川神社本殿透彫胴羽目彫刻
(大和田1-15-13 氷川神社)
文化13年(1816)年頃、江戸の名工嶋村源蔵作による透彫りの木造彫刻3点で、「神功皇后」「養老の滝」「鞍馬天狗」の題材をたくみな技法で彫り抜いている。
(平成12年3月17日指定) |
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市指定無形民俗文化財 大和田氷川神社はだか神輿
(大和田1-15-13 氷川神社)
大和田氷川神社に伝わるはだか神輿は、白ふんどし、白足袋の若衆達によって境内から担ぎ出された神輿が川越街道を練り歩くというもの。神輿を高く持ち上げたり、地上すれすれに落としたりする勇壮な様から別名荒神輿といわれる。
(7月の第4金・土午後7時〜の予定)
(平成14年11月1日指定) |
新座の歩み
新座市は、柳瀬川・黒目川沿いに開けた沖積低地と、それにはさまれた野火止台地からなり、古くから居住の場のみならず、宿場や交通の要所として栄え、時代の流れとともに大きな発展をしてきました。
すでに旧石器時代には、黒目川流域の市場坂遺跡に先人たちの足跡がみられます。
市域には、旧石器時代から古墳時代にいたるまで両河川流域を中心に100ヶ所余りの遺跡があります。稲作農耕に代表される弥生時代には、両河川流域の沖積地が水田として拓かれて、周辺の新開遺跡では複数の方形周溝墓が発掘されました。古墳時代から奈良・平安へと時代がすすむにつれ、河川流域全体に居住空間が広がり、ムラへと拡大していきます。
そのころ新座の周辺は、律令政治により先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行なわれました。天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置され、市域はその郡下に属しましたが、生産技術や生活文化の面で大きな影響を受けたものと考えられます。新羅郡はその後新倉郡、さらに新座郡と名称を変えますが、本市の名はその歴史的名称に由来するものです。
やがて、武蔵武士の台頭から片山郷の出身である片山氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて黒目川流域を中心に活躍します。一方、普光明寺や氷川神社を中心とする柳瀬川流域の大和田郷一帯にも文化の華がひらきはじめ、市域は、にわかに豊かな歴史的展開をはじめました。
近世に入ると、江戸近郊地という政治的位置から川越・高崎藩領をはじめ、片山七騎などが知行した旗本領や、天領、平林寺領が入りくんで支配しました。なかでも川越藩主松平伊豆守信綱による野火止台地の開発や、それにともなう野火止用水の開削は有名です。江戸時代には開発によってできた村などを含め、市域には15の村が成立しました。これらの村々は幕末の変動を経て明治を迎えます。
明治8年(1875)4月、黒目川流域の片山10ヶ村は、合併して片山村となり、明治22年(1889)4月には町村制施行によって大和田町と野火止村ほか新田4ヶ村が、合併して大和田町になりました。その後、昭和30年(1955)3月には大和田町と片山村が合併して新座町が成立し、さらに昭和45年(1970)11月には新座市に市制を施行しました。
現在、人口15万人を擁する新座市は、埼玉県南西部の中堅都市として、順調に発展を続けており、「自然と人間の調和した健康都市」を目標として街づくりをすすめています。 |
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文化財は、身近なところで、私達の先祖の生活や知恵を伝えている大切なものです。
文化財をよごしたり、管理している方に迷惑をかけないよう気をつけましょう。 |
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